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Update: 2024-09-02

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Ishibashi らによる “DSP Implementation of Adaptive Notch Filerts With Overflow Avoidance in Fixed-Point Arithmetic” に基づいた適応ノッチフィルタを実装します。適応ノッチフィルタはサイン波 + ノイズの信号から、サイン波だけを消すときに使えます。ただしノイズの種類によってはうまく動きません。

以下はプロットの作成などに使った完全なコードへのリンクです。この文章で紹介しているすべての実装を含んでいます。

CPZ-ANF (adaptive notch filter with constrained poles and zeros) は Ishibashi らの論文で紹介されていた適応ノッチフィルタの名前です。

以下は CPZ-ANF で使われているノッチフィルタの伝達関数です。

\[ \begin{align} H_N(z) &= \frac{1 + a[n] z^{-1} + z^{-2}}{1 + \rho a[n] z^{-1} + \rho^2 z^{-2}}, \\ a[n] &= -2 \cos(\omega_0[n]). \end{align} \]

以下はフィルタ係数 \(a\) を更新する式です。

\[ \begin{align} a[n + 1] &= a[n] - 2 \mu y[n] s[n],\\ s[n] &= z^{-1} - z^{-1} \rho H_N(z). \label{cpz-anf_s} \end{align} \]

\(n\) はサンプル数で表された時間、 \(x\) は入力信号、 \(y\) は出力信号、 \(\omega_0\) はノッチの角周波数、 \(\rho\) はノッチの幅、 \(\mu\) は適応の速さです。 \(\rho\) の範囲は \([0, 1)\) で 1 に近づくほどノッチが狭くなります。 \(\mu\) の範囲は \([0, 1]\) ですが 1 に近づけすぎると発散することがあります。

Python 3 で実装します。 Direct-form II での実装が指定されています。

import numpy as np

def adaptiveNotchCpz2(x, rho=0.99, mu=1, initialGuess=0.5):
    out = np.zeros_like(x)
    a = -2 * np.cos(2 * np.pi * initialGuess)
    v1 = 0
    v2 = 0
    for i in range(len(x)):
        a1 = rho * a
        a2 = rho * rho

        x0 = x[i]
        v0 = x0 - a1 * v1 - a2 * v2
        y0 = v0 + a * v1 + v2
        out[i] = y0  # ゲインは 0 dB を超えることがあるので注意。

        s0 = (1 - rho) * v0 - rho * (1 - rho) * v2
        a = np.clip(a - 2 * mu * y0 * s0, -2, 2)

        v2 = v1
        v1 = v0
    return out

ノッチフィルタ \(H_N\)\(a \geq 0\) のときに周波数 0 のゲインが最大、 \(a < 0\) のときにナイキスト周波数のゲインが最大となります。したがって \(a \geq 0\) のときに \(|H_N(e^{j0})|\)\(a < 0\) のときに \(|H_N(e^{j\pi})|\) を計算すればゲインの最大値が得られます。 \(a\) の符号を考慮すると絶対値の計算を省略できます。

\[ \begin{aligned} \text{Gain at frequency 0 is:} && |H_N(e^{j0})| &= |H_N(1)| = \frac{1 + a[n] + 1}{1 + \rho a[n] + \rho^2}.\\ \text{Gain at Nyquist frequency is:} && |H_N(e^{j\pi})| &= |H_N(-1)| = \frac{1 - a[n] + 1}{1 - \rho a[n] + \rho^2}.\\ \end{aligned} \]

ゲインの最大値を 0 dB に正規化するときは、上のコードの out[i] = y0 の部分を以下に変更します。

if a >= 0:
    out[i] = y0 * (1 + a1 + a2) / (2 + a)
else:
    out[i] = y0 * (1 - a1 + a2) / (2 - a)

より詳しい分析を AM 適応ノッチフィルタの分析の節に掲載しています。 \(a\) の計算が異なりますが、位相差についての挙動は同じです。

以下は y0s0 の位相特性です。

Plot of phase difference of output y and gradient s in CPZ-ANF.

y0s0 の位相差を示したオレンジの線 (Diff.) に注目すると適応ノッチフィルタの癖をある程度予想できます。 Diff. が \(-\pi/2\)\(-3\pi/2\) の黒い横線を超えるごとに y0 * s0 の直流成分の符号が変わります。この符号の変化が a がターゲット周波数へと向かう適応の仕組みです。上の図ではカットオフ周波数を境に Diff. の符号が変わるので、おおよそは適応には成功しそうです。しかし Diff. が \(-3\pi/2\) を下回る高い周波数では適応に失敗しそうです。

以下のように s0x0 に置き変えても、なぜか適応ノッチフィルタとして動きます。

def adaptiveNotchAM(x, rho=0.99, mu=1, initialGuess=0.5):
    out = np.zeros_like(x)
    a = -2 * np.cos(2 * np.pi * initialGuess)
    x1 = 0
    x2 = 0
    y1 = 0
    y2 = 0
    for i in range(len(x)):
        x0 = x[i]
        y0 = x0 + a * x1 + x2 - rho * a * y1 - rho * rho * y2
        out[i] = y0

        a = np.clip(a - 2 * mu * y0 * x0, -2, 2)

        x2 = x1
        x1 = x0
        y2 = y1
        y1 = y0
    return out

上の実装は Direct-form I の形を使っています。 a の計算で y0 * x0 という振幅変調 (AM) の形が出てきているので AM 適応ノッチフィルタと呼んでいます。

サイン波が AM 適応ノッチフィルタに入力されたときの挙動について分析します。

式をたてます。 \(x\)\(y\)\(\sin\) でもいいのですが、符号をそろえて楽をするために \(\cos\) を使っています。

\[ \begin{aligned} x(t) &= \cos(\omega t). && \text{Input.} \\ y(t) &= A \cos(\omega t + \phi). && \text{Output.} \\ s(t) &= x(t) y(t) = \frac{A}{2} \Big( \cos(2 \omega t + \phi) + \cos(-\phi) \Big). && \text{AM}. \\ a(t) &= -2 \cos(\omega_a(t)) = a(t - \delta_t) - 2 \mu s(t),\\ \omega_a &\in [0, \pi). \end{aligned} \]

\(\phi\) は周波数 \(\omega\) でのノッチフィルタの出力の位相特性、 \(A\) は周波数 \(\omega\) でのノッチフィルタのゲインです。

\[ \phi = \angle H_N(e^{j\omega}), \quad A = |H_N(e^{j\omega})|. \\ \]

以下はノッチフィルタの位相特性です。

Plot of phase response of notch filter.

ここで以下の分析ができます。 \(\langle s \rangle\)\(s\)時間方向の算術平均です。

上の分析を踏まえてノッチフィルタの位相特性を見直すと、カットオフ周波数の周りでは符号が反転がうまく働いて適応に成功しそうです。しかしターゲット周波数が高くなると位相特性が \(-3\pi/2\) を下回ってしまうので、適応に失敗しそうです。また \(\rho\) の値があまりにも 1 に近いとカットオフ周波数の上側で符号が反転する範囲があまりにも狭くなるので、これも失敗しそうです。

ここで肝となるのが \(s\) が完全に正あるいは負の値となることは稀ということです。つまり \(a\) が平均としてはターゲットから離れる方向に進んでいても、瞬時的に正しい方向へと向かう状態が現れます。この挙動によって誤った周波数で適応が止まった状態から抜け出すことがあるかもしれません。

簡単に試した範囲では \(\rho\) を 0.8 あたりまで下げれば、ターゲット周波数が高くても適応に成功します。また y0 * x0 ではなく y0 * x1 にしたほうが収束が速くなることがありました。

分析によって、ターゲット周波数がノッチのカットオフ周波数のより低いときは \((-\pi/2, \pi/2)\) の位相差、高いときは \((\pi/2, 3\pi/2)\) の位相差を作ってやれば AM による \(a\) の更新が上手くいきそうなことが分かりました。

位相差を作るためには \([0, -\pi)\) の位相差を作ることができる 1 次オールパスフィルタが使えます。以下は 1 次オールパスフィルタの伝達関数です。

\[ H_{AP}(z) = \frac{k_{AP} + z^{-1}}{1 + k_{AP} z^{-1}}. \]

\(k_{AP}\) は、ノッチフィルタの \(a\) から決めます。 \(a\) からノッチのカットオフ周波数 \(\omega_a\) を計算して、 \(\omega_a\) をブレーク周波数 (break frequency) として \(k_{AP}\) を計算します。

\[ \omega_a = \pi - \arccos(a / 2),\quad k_{AP} = \frac{\tan(\omega_a / 2) - 1}{\tan(\omega_a / 2) + 1}. \]

以下は \(k_{AP}\) を変えたときの位相特性です。

Plot of phase response of first order allpass filter.

以下はブロック線図です。推定値に近くなったときに修正幅を狭めるため、ノッチの出力の絶対値を AM 信号にさらに乗算しています。 \(a\) の 1 サンプル当たりの変化量 \(\dot{a}\) の処理を青で示しています。 \(a\)\(k_{AP}\) に変換する処理をオレンジで示しています。

Block diagram of improved AM adaptive notch filter.

以下は実装です。

def adaptiveNotchAM2(x, rho=0.99, mu=1, initialGuess=0.5):
    out = np.zeros_like(x)
    a = -2 * np.cos(2 * np.pi * initialGuess)
    x1 = 0
    x2 = 0
    y1 = 0
    y2 = 0
    q1 = 0  # オールパスの 1 サンプル前の入力。
    r1 = 0  # オールパスの 1 サンプル前の出力。
    for i in range(len(x)):
        x0 = x[i]
        y0 = x0 + a * x1 + x2 - rho * a * y1 - rho * rho * y2
        out[i] = y0

        omega_a = np.pi - np.arccos(a / 2)
        t = np.tan(omega_a / 2)
        k_ap = (t - 1) / (t + 1)

        r1 = k_ap * (x0 - r1) + q1
        q1 = x0
        a = np.clip(a - mu * np.abs(y0) * x0 * r1, -2, 2)

        x2 = x1
        x1 = x0
        y2 = y1
        y1 = y0
    return out

\(\rho\) が 0.99 あたりで高い周波数への適応がいいです。出力が完全に 0 に収束しづらいという欠点があります。特に低い周波数では収束が遅くなります。また \(\rho\) を 0 に近づけるほど収束し損ねた信号の振幅が大きくなります。

収束しづらいのはカットオフ周波数付近では位相差 \(\phi\)\(-\pi/2\) に近づくため、直流成分 \(\cos(-\phi)\) がほぼ 0 になるからだと考えられます。したがってターゲット周波数とカットオフ周波数の距離が遠いほど収束が速く、周波数の差が縮まるにつれて収束が遅くなります。

AM による周波数の適応は \(H_N\) とは異なるノッチフィルタとも組み合わせられます。計算量の面からみると利点は薄いですが、 RBJ biquad のノッチと組み合わせた実装を以下に掲載しています。

\(H_N\) を使った適応ノッチフィルタは、フィルタ係数 \(a\) の挙動によって発散することがあります。

まずは \(a\) の値が \([-2, 2]\) を超えないように制限します。以下のコード例の np.clip は C++ などの clamp と同じ計算です。 delta_a は 1 サンプル当たりの \(a\) の変動です。

a = np.clip(a - mu * delta_a, -2, 2)

\(a\) が数サンプル以内で大きく動くと発散することがあります。 \(a\) の動きを緩やかにする最も手軽な方法は \(\mu\) の値を 0 に近づけることです。ただし副作用として収束が遅くなります。別の方法は \(a\) の変動値にスルーレートリミッタあるいは EMA ローパスをかけることです。

スルーレートリミッタは delta_a の範囲を制限するだけで実装できます。ただし収束しきっていない波形が歪むことがあります。

a = np.clip(a - mu * np.clip(delta_a, -1e-2, 1e-2), -2, 2)

EMA ローパスの実装には状態変数とフィルタ係数が必要です。状態変数はループの外で w1 = 0 と定義しておきます。フィルタ係数は個別に設定できますが、 \(\mu\) を流用すると楽です。

w1 += mu * (delta_a - w1)
a = np.clip(a - mu * w1, -2, 2)

念を入れるのであれば、出力を isfinite に渡して、値が有限でなければフィルタの状態をリセットすると安全です。 C++ ではコンパイラの -ffinite-math-only/fp:fast が有効だと std::isfinite は常に true を返すので注意してください。 -ffinite-math-only-ffast-math によって有効になります。